日本地球惑星科学連合の歴史

日本地球惑星科学連合の歴史

日本地球惑星科学連合の歴史は,合同大会が初めて開催された1990年に始まったといって良いかと思います.日本地球惑星科学連合の設立は,日本の地球惑星科学の大きな転換点であるともいえます.そこで,以下では連合大会の歴史を簡単に振り返ってみたいと思います.


第1回合同大会開催まで

1980年代には,地球科学,惑星科学に関わる学会は数多くありましたが,これらの学会間の連携をはかる仕組みはほとんど存在しませんでした. 80年代後半になって,一般には “ JGU構想”と呼ばれていた,米国地球物理学連合( American Geophysical Union; AGU)の日本版を目指した様々な検討が,個人ベースでは行われましたが,多くの学会を巻き込むような流れを作るには至りませんでした.このため一足飛びに学会連合をめざすのではなく,いくつかの学会が春の大会を同時に同じ場所で開催してみてはどうかということが,後に初期の合同大会に参加する学会の会員がそろっていた東京大学地震研究所内の少数のメンバーによって企画されました.この頃多くの学会では,春は東京で,秋は地方で,年 2回大会を開催していました.この春の東京での大会を,同じ場所で,同じ時期に開催しよう,という計画でした.しかし,多くの学会が同じ場所で大会を開催するためには, 1学会あたり 2~ 3会場として,それに学会数をかけた多数の講演会場を確保する必要があるため,場所探しにはかなりの困難を伴いました.やっと 1989年の初め頃になって,東京工業大学の大岡山キャンパスで次の年の春休みの期間に会場を用意していただくことができ,合同大会の開催が可能な物理的条件は整いました.それからの問題はこの合同大会の開催に向けて学会間でどうやって話し合いを持つかということでした.当時学会間での連絡調整の場は存在せず,さらに学会内でこのような学会間の連携について話し合うことは,学会の存続に関わるともいえ,ある意味でタブーでもありました.そのため,合同大会開催に向けた実際の手続きは,合同大会にゴーサインが得られた唯一の学会である地球電磁気・地球惑星圏学会が,会長名で,地震学会会長宛に合同大会開催の呼びかけ学会となることを提案することが第一歩となりました.それ以降はこの2学会が中心となって,他の学会に呼びかけを行うという形式をとりました. 1989年 5月, 2学会の連名で,「地球物理学に関連する諸学会の春季大会を同時に同じ場所で開催することについての提案」を,日本火山学会,日本測地学会,日本地球化学会,日本気象学会,日本海洋学会に送付し,各学会の内部で議論していただくことになりました.さらに 2学会は,同年 7月に「地球物理学会連合について話し合う機会を持つことについての提案」を行いました.学会連合についての学会間の話し合いについての公式の提案は,これが最初であると思います.これらの手続きによって, 1990年 4月 6日から 8日までの 3日間,東京工業大学の大岡山キャンパスで, 11の講演会場とポスター会場を使って,地震学会,地球電磁気・地球惑星圏学会,日本火山学会,日本測地学会,日本地球化学会の 5学会による合同大会を開催することが出来ました.日本気象学会と日本海洋学会は合同大会には参加しませんでしたが,合同大会の際には,これらの学会の学会員も参加するシンポジウムが企画されました.


連絡会の常置

当初の合同大会の開催は 1回限りという提案でしたが,この第 1回大会開催の直前の 3月 29日に,やはり 2学会の提案として,合同大会開催を 3年間継続すること, 1990年の合同大会のためだけに組織された合同大会連絡会を常設の委員会とすること,そしてこの委員会で学会連合についても議論すること,の 3か条の提案をしました.第 1回合同大会には 1,000名以上の参加者があり,多くの参加者に合同大会の意義と必要性が認識され, 1回だけの開催でなく合同大会を毎年開催しようという機運が高まり,合同大会を毎年開催することが,複数の学会によって合意されました.次年度の第 2回合同大会を共立女子大学で開催することも,この際に決まりました.また,合同大会を毎年開催するための組織として「地球惑星科学関連学会連絡会」(以下 “連絡会”と略す)が 1990年 7月 31日に作られ,合同大会を今後も継続して実施していくための準備を行うことと,合同大会への参加を多くの学会に呼びかけていくことが決められました.この組織は合同大会の準備に加えて,一般的な課題に関する学会間の連絡調整を行う組織としての役割も持っていました.このような学会間の連絡組織が作られたのは,地球惑星科学に関わる学会としては初めてのことです.これらが実現したことで,当初の合同大会のきっかけを作った,地球電磁気・地球惑星圏学会及び地震学会の 2学会は,呼びかけ学会としての役割を終えたといえます.

連絡会の第 1回会合は,第 2回合同大会が開催された後の 1991年 4月 26日に,東京大学海洋研究所で開催されました.この連絡会への参加学会は,地震学会,地球電磁気・地球惑星圏学会,日本火山学会,日本地球化学会,日本海洋学会,日本岩石鉱物鉱床学会,日本気象学会,日本鉱物学会,日本測地学会,日本地質学会という 10学会でした.この連絡会の設立が,今日の連合の出発点となっています.また, 1990年には JGU構想でお手本とした米国地球物理学連合( AGU)の提案によって,日本の地球物理学関連の 9分野( 8学会と 1グループ)と AGUとの共同主催によって, 1990年 8月 21日から 25日の期間,石川県金沢において国際地球物理金沢会議( 1990 Western Paci.c Geophysical Meeting. 略称 1990WPGM)が開催されました.この数年前から, WPGM開催のために集まった日本の学会群は,後に「地球物理学関連学会長等懇談会」として主に地球物理学に関連する学会(正確には学会長個人)間の連絡調整を実施し,最終的に日本地球惑星科学連合設立のための準備会の母体として,連合設立を了承する場となりました.したがって,この 1990WPGM金沢会議の開催も,連合の設立に向けた出発点の役割を担ったといえます.


合同大会の発展

合同大会はその後, 1991年共立女子大学八王子校舎, 1992年京都大学教養部, 1993年東京都立大学, 1994年東北大学川内北キャンパス, 1995年日本大学文理学部, 1996年大阪大学豊中キャンパスと,毎年開催されました.この間,参加学会も年々増加し, 1996年大会では,日本地震学会,地球電磁気・地球惑星圏学会,日本火山学会,日本地球化学会,日本岩石鉱物鉱床学会,日本鉱物学会,日本測地学会,日本惑星科学会,日本海洋学会(シンポジウムのみ),日本地質学会,日本気象学会,資源地質学会の 12学会となり,大会参加者も 2,000名を超えるまでに成長しました.しかし一方で,学会連合に向けた具体的な進展はみられず,大会規模の拡大と共に,大きな会場(会場数 10以上)を確保することが難しく,毎年の合同大会開催地域の大学が担当する組織委員会の負担が増大し,大学の回り持ち組織で合同大会を運営して行くことは困難になりつつありました.

この頃の連絡会では,合同大会の改廃を含め,激しい議論がなされていました.大阪大会までは,毎年次年度の大会を担当する大学が,大会開催に加えて連絡会幹事としての事務を行なっていました.しかし,各大学が回り持ちのために毎年の定例の作業が継承できず,各大学が新たに一から計画するために,負担が大きい状況でした.この大学の負担を軽減するために,常設の地球惑星科学関連学会合同大会運営事務局が作られ,その第 1回会議が 1996年 3月 26日,大阪大会の際に開催されました.この常設の事務局の設置により,各大学の負担をある程度軽減することができました.しかし,事務局と大会を開催する各大学の組織委員会は別組織であるために,年 2回の連絡会の際の議論だけでは一体的に合同大会を運営できるまでには至りませんでした.

合同大会継続のための大きな変革がなされたのは, 1997年名古屋大会の次の 1998年東京大会でした. 1998年の合同大会は東京大学の担当でしたが,東大の駒場キャンパスや本郷キャンパスでは,合同大会を開催できるような会場を確保することができませんでした.そこで,これまで行ってきた大学のキャンパスでの合同大会の開催をあきらめ,大学外の代々木オリンピック記念青少年センターで開催することになりました.

この大会での重要な変革は,会場の変更だけでなく,「合同大会」の名称通りの各学会の大会を合同で行うというスタイルから一歩進め,各学会の固有セッションを廃止して,学会共通の全体的なトピックを優先することとし,地球惑星科学分野全体として開催する大会を目指したことです.この大会は,会場の関係から,それまで 3月末~ 4月初めだった開催時期を 6月に変更し,大会参加者の受益者負担を原則として,投稿料をはじめて徴収し,大会参加費を大幅に値上げしました.このため,主催者側は十分な参加者によって大会開催に必要とする経費をまかなえるかどうか大会当日まで大変心配しましたが,結果としては多くの参加者によって大会主催者は破産を免れ,合同大会の即廃止につながらずにすみました.


運営機構の設立

代々木オリンピックセンターでの開催は 1999年大会(北海道大学担当), 2000年大会(九州大学担当)と続きましたが, 1999年頃から明らかになってきたように,合同大会の組織委員会を構成できるような大学はほぼ一巡し, 2001年以降は合同大会の開催を担える大学はなくなってしまいました.合同大会を終わらせてしまうことは,当初目的であった学会連合に向けた取り組みがなくなってしまうことでもあるため, 2000年頃には,連絡会を中心として,合同大会継続のための方策についての議論が行われ,様々な提案がなされました.学会としての検討の中心となったのは,合同大会の開催のきっかけとなった日本地震学会,地球電磁気・地球惑星圏学会,そして合同大会が始まった後に発足した日本惑星科学会でした.また地球惑星科学関連の学会としては巨大である日本地質学会や日本気象学会も,この議論には重要な役割を果たしました.多くの関係者は合同大会を継続することの必要性を強く認識していたために,連絡会での激しい議論をへて,最終的には合同大会に参加する地球惑星科学関連学会の総意のもとに,常設の組織である「地球惑星科学合同大会運営機構」(以下 “運営機構”と略す)が作られ,合同大会を継続的に組織・運営することになりました.

運営機構は合同大会参加学会に所属する全国の研究者と専任の事務局員で構成され,その事務局は東京大学におかれました.運営機構の設立によって,毎年の合同大会を運営する組織と,学会間の連絡調整を行う連絡会として機能する組織が 1つにまとまることで,合同大会開催の実務が継承していく中で,学会連合についての議論も行うことができ,連合体設立に向けて一歩前進したといえます.この運営機構が運営する合同大会は,その後 2003年から会場を幕張メッセ国際会議場に移して毎年 5月に開催され, 2003年以降は大会講演数や参加者はほぼ毎年 15%の割合で増加し続けることになります.


連合の誕生

連合の設立に向けた次のきっかけは,日本学術会議の 2005年 10月の組織改編を目指した取り組みでした.この日本学術会議の改革により,それまで研究連絡会(研連)組織等による学会単位での学術会議との対応がなくなり,従来の分野でいうと地球物理学,地質学,鉱物学,地理学のすべて含む広義の地球惑星科学分野全体が,新しい学術会議の設立に対応する必要が生じました.このため地球惑星科学全体の中心となる組織の必要性が,多くの地球惑星科学に関わる研究者に認識され,前述の「地球物理学関連学会学会長等懇談会」において地球惑星科学に関わる学会間の連携を図るためのワーキンググループが作られ,活発な議論が繰り返されました.この議論を経て,最終的に 2004年秋に日本地球惑星科学連合準備会が作られ, 2005年 5月に開催された合同大会において, 24学会が参加する「日本地球惑星科学連合」(以下 “連合”と略す)が誕生しました.

連合の設立以降にも参加学会は着実に増加し,現在では地球惑星科学に関連する 50学会が参加し,わが国の地球惑星科学分野の中心として全体をまとめ,対外対応を行える組織となっています.合同大会も連合大会と名前を変え,参加者は着実に増加しています. 2013年の大会は 5月 19日(日)~ 24日(金)の 6日間開催されましたが,開催セッション数は 180件,そのうち 42が国際セッションでした.また発表論文数も 4,000件,参加者数も 7,000名となっています.

日本地球惑星科学連合は,その後法人組織の規定変更に伴い 2011年から一般社団法人, 2012年からは公益認定を受けて公益社団法人となりました.「日本地球惑星科学連合」は,地球物理学,地質学,鉱物学,地理学等に関する学会を網羅する,世界でも類を見ない総合的な学会組織として,今後もわが国における地球惑星科学コミュニティーの相互理解,意見集約や合意形成をはかると同時に,対外的な窓口組織として国や一般社会に対して提言や情報発信を行っていきます.日本学術会議との連携や国際プロジェクト等への対応,わが国の科学技術政策への提言,初等・中等教育における地学教育や理科教育問題への対応,報道機関を通じた研究成果等の情報発信,一般市民を対象とした教育・啓蒙・アウトリーチ活動等で,その任務をさらに充実させていきます.